エンミー・ネータ-:歴史に名を残す女性数学者
歴史に名を残す数学者
歴史に名を残す数学者は、紀元前のギリシャの数学者であるターレス、ユークリッド、アリストテレス、ピタゴラスから、現代の数学者であるバナッハ、ウイーナ、ゲーデル、ヴェイユ、シャノン をはじめ100人もの天才数学者があげられます。何人かの数学に極めて顕著な貢献をした天才数学者について、本稿に書いてきました。歴史に名を残している数学者はほとんどが男性数学者で、女性数学者はごくわずかです。ソフィア・コワレフスカヤについては既に書きました。次のリンクを参照してください。 ソフィア・コワレフスカヤ 2018年の医学部入試で女子合格者が男子合格者より不利な条件で合否判定されていたことが大きな問題になりました。数学の世界ではその歴史に名を残している女性数学者はそれほど多くはありません。かつてのヨーロッパの理工学に関する女性の関与があまり許されていなかったこともその一因であるかもしれません。
数学史上トップレベルの優れた数学者であり女性数学者
その女性数学者は、ドイツのエンミー・ネーターです。エルランゲン大教授で代数幾何学者であった父マックス・ネーターの長女として1882年に生まれました。幼少時のエンミーは、少しどもりで近視で容姿に魅力を欠いていました。彼女はエルランゲン州立女子高校に進学した。そして18歳の時つまり1900年に英語とフランス語の教員試験に合格しました。そして彼女は大学で勉強をしたいと思いました。しかし当時のヨーロッパの大学は現在の日本以上に女性に対して閉鎖的でした。当時のドイツの大学では、女性は正規の学生としては認められませんでした。またこのかなり後ですが、男女共学になっていましたが、ベルリン大学の教授は、教室にただ一人の女性がいたという理由で、講義を始めなかったそうです。なんたる社会。しかし彼女は男性的傾向が大きく、Der Noether と呼ばれたこともあるそうです。
1900年ネーターは、エルランゲン大の聴講生となり、さらに1903年に当時の最高峰のゲッティンゲン大でヒルベルト、クライン、ミンコウスキーという天才数学者の講義を聴講しました。そして彼女エルランゲン大に移りゴルダン、フィッシャーに学びヒルベルト流の抽象代数学に向かってゆきます。1915年にクラインとヒルベルトに招かれゲッティンゲン大に移りました。
そして1917年には与えられたガロワ群を持つ代数方程式に関する論文を書きこの論文はこの分野の基本的なものになっています。不変式論に詳しい彼女は相対性理論に興味を持っていたヒルベルトに歓迎されました。このような才能あふれたネーターを大学に就職させようとしたが、当時の文部大臣にも拒否されました。このときの有名なヒルベルトの言葉は、有名です。「大学の私講師にするのに、候補者の性が問題にされることは、私には理解できない。これは、大学の問題であり、浴場の問題ではない。」
第一次大戦後、ネーターも私講師として働き始めました。ネーターの真価は、中年を過ぎてからさらに発揮されてきます。環におけるイデアル論、代数体および代数関数体におけるイデアル論の抽象的建設、そして1922年には員外教授に昇進しています。ネーターの周りには世界中から若き俊秀が集まり、ネータ・クナーベンといわれました。この中には日本の正田健次郎(東大卒)もいます。(健次郎の弟健三郎の長女が美智子皇太后です。)