アーベル-北欧の天才数学者-
アーベルの生い立ち
アーベルは、1802年にノルウエーで生まれました。父親は教師でした。当時ノルウエーはイギリスと戦争をしていましたので、経済状況は悪く、教師の生活は惨めなものだったといわれています。
アーベルがオスロの中学にいたころ、ある先生にであい、アーベルの数学的な才能が開花していったのです。アーベルは、オイラー、ラグランジュ、ガウスなどの偉大な数学者の著作を読み、さらに才能を向上させました。あるとき、アーベルがどうして数学者になれたのか、と聞かれアーベルは、「偉い人の弟子ではなく、偉大な数学者に学んだからだ。」と答えています。
同時代のガロワやアーベルは、学校の教科書に大きな疑問を抱いていました。これは、今の日本においても同様なことがいえる面もあるように思います。幸いこの2人は偉大な数学者になれたからよかったと思いますが、つまらない教科書のために多く人が数学に埋没してしまった例が多くあるように思います。日本の難関大や高等教育でも考えるべきときにあるのかも知れません。
アーベルの業績
アーベルは、オスロ大学に入りますが、大学に入る前に5次方程式の論文を書いています。大学に入ってからも、またオスロ大学を卒業してからも、5次方程式のことに没頭していました。アーベルは、1824年に「5次方程式を解くことができないと言う証明をしたある代数方程式についての研究報告」と言うとても長い題名の論文をまとめ自費出版しました。
アーベルは、この論文をガウスに送りましたが、あのガウスは見向きもしなかったと言われています。これにはわけがあって、一般のn次の代数方程式には、n個の解がある事を証明していました。いわゆる代数学の基本定理です。アーベルはゲッティンゲンのガウスを訪れようとしましたがやめて、ベルリンに行っています。ここで、クレレという人を訪ねています。クレレは数学者ではありませんでした。彼はドイツで最初に鉄道を建設した技術者でしたが、数学愛好家でいた。しかし、天才的な数学者を見抜く本能的な直感を持っていました。アーベルにあった時もアーベルの天才を見抜き、ベルリンのワイエルシュトラウスにアーベルのことを話しています。
クレレはアーベルに会ったときに大学受験の相談に来たと思いましたが、彼はそうではなく、数学だけをやりに来たと伝えます。クレレはアーベルにどんな物を読んだか聞いたそうですが、そのときクレレの階乗についての論文の間違いを指摘しています。さらに5次方程式について話しました。クレレは、数学の雑誌(クレレ誌と言われています。)を発行する予定である事をアーベルに伝えています。
そして、かつて書いた5次方程式の論文を読みやすく書き換えてクレレ誌に掲載することを薦めました。最初の2巻に20編以上の論文を書いています。
アーベルの主要な研究
有名なのは、ガロワとほぼ同時期に独立に証明した5次方程式には、解の公式がないというものです。3次はカルダノの公式、4次はフェラーリの公式があります。また、連続級数の研究や楕円積分やその逆関数としての楕円関数の研究などが上げられます。さらに、超越関数についての研究もしています。ガロワはフランス革命当時決闘で20歳でなくなっていますが、アーベルも結核で27歳と言う若さで亡くなっています。
難関大では、群論に関する問題がでる場合がありますが、特に演算に対して交換法則が成り立つ群のことを、アーベル群ともいいます。