高木貞二-明治以来の最初の日本の著名数学者-

高木貞二の生い立ち

江戸期には、和算で著名な数学者は、関孝和や建部賢弘などが活躍して、微分積分学の発想やπの計算まで相当詳しく研究していたことが知られています。
明治以降では、西洋の数学が日本にも移入され、和算は次第にすたれていくことになります。

明治維新後、西洋文明が日本にもどんどん取り入れられ、文明開化したこととも期を一にしていると思われます。欧米の数学が導入される課程で、色々な数学的用語や記号が取り入れられてきます。なかには、imaginary number i を虚数と訳したり、function を 函数(発音が似ていたようです。)と訳したりしていますが、今では、関数となっています。

このなかで、高木貞二は明治期のもっとも著名な日本の数学者と言っても過言ではないと思います。高木は、旧制3高から、東京帝国大学理学部数学科に入学しています。高木はアーベル方程式をテーマとしました。

東大数学科のとき、ある教授の試験があり、後にKS鋼で金属学で業績を上げた本田光太郎が、「自分は、ノートを4度も読んだから、どこが出ても大丈夫だ」といったところ、高木は、「数学は、暗記する学問なんですかね。」と言ったそうです。高木の極めて高い知性が垣間見えているような事実です。(この時の高木の点数は、100点満点で、140点だったそうです。)

高木のドイツへの留学

高木は、留学生としてドイツに留学します。最初は、ベルリン大学に留学し、フロベニウスなどの講義を好んで聴いていたようです。その後、1900年ごろ、高木はあの有名なゲッティンゲン大学数学科に移りました。クラインやヒルベルトが大活躍し、世界の秀才、天才が多数集まっていた研究の1大拠点になっていました。高木は、かつてのヒルベルトの家に寄宿していたといわれています。ゲッティンゲンでは、代数的整数論を研究し、虚数乗法の問題を解決しています。

高木の帰国と東大での研究

1901年ごろに高木は、日本に帰国し東京帝国大学の助教授として、講義をし、研究論文を書き、学位を得ています。

日本で代数的整数論の研究を続けていましたが、1914年に第1次世界大戦が始まると、ドイツからの論文や本が日本に来なくなりました。高木は自分自身で研究するしかない状況となり、それが後の世界的業績である類体論につながったと高木自身も言っています。

高木の類体論とはどのようなものなのか

例えば、有理数全体の集合 \(\mathbb{ Q }\) は、加減乗除の演算で、閉じています。つまり、この中の2数の演算が、有理数の集合に属しています。また、複素数全体の集合 \(\mathbb{ C }\) も同様です。このような集合を体(field) と言います。

少し複雑になりますが、有理数体と複素数体の中間的な体であって、有理数体にたいして、有限の基底をもつものを、代数体と言われます。少し難しいですが、高木は、代数体kの上の任意のアーベル体が、kのあるイデアル類群のうえの類体になる事を証明したのです。その応用として、クロネッカーの青春の夢も肯定的に証明されることとなりました。

高木の有名な著書やエピソード

高木は、東大を退官後、解析学の有名な教科書である「解析概論」を書いていますし、「整数論」や[数の概念」などを書いています。今でも解析概論は、出版されています。

また、高木の東大でのエピソードに、インテリジェンス・クオーターがあります。大学教授は、知的な講義をするのだから、クオーターつまり、15分遅れで講義が始まるという暗黙の慣例があったそうです。ところが、高木の講義は、毎回30分遅れで始まったそうです。

あるとき、学生が高木に聞いたそうです。「先生の講義はどうして30分遅れで始まるんですか。」高木は言ったそうです。「君は、インテリジェンス・クオーターを知っていますか。」学生は、「はい、知ってます.15分の事です。他の先生は、インテリジェンス・クオーターの15分遅れで講義が始まります。」高木は平然として言ったそうです。「通常は、15分遅れで講義が始まるね。では、それにインテリジェンス・クオーターを足すと何分になるかね。」
高木の知的センスの面目躍如といったところでしょうか。

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