数学の試合-どんな試合?-
数学の試合って?
かつて中世ヨーロッパに数学の試合があったと言ったら、少し驚くかもしれません。野球やサッカーや格闘技などのスポーツでは、勝敗をつけるのに、試合をするのが極めて普通です。勝負の世界では、勝ち負けをはっきりさせて、勝者を決めます。当然のことです。もうすぐ、2016年 リオデジャネイロ・オリンピックですが、ここでは勝敗を決めて、金メダル、銀メダル、銅メダルが栄誉として与えられます。現代においても、サイエンスでオリンピックと言われるものはあります。数学オリンピック、物理オリンピック、化学オリンピックなどがそうです。これは、若者を対象とした大会で(難問です。)出題された問題を一定時間内に(かなり長い時間が与えられます。)どれだけの問題が解けるのかといういわゆる試験(テスト)です。興味のある人は調べてみると良いと思います。ここで言っている数学の試合は、まさしく数学の対戦であり試合なのです。時は、15世紀から16世紀のイタリアにさかのぼります。
中世ヨーロッパの数学
この頃ヨーロッパでは、ルネサンスの時代であり、ギリシャやローマの文化に復興されようという運動があった時代でもあります。また、イタリアで数学が盛んに研究されていましたが、内容は代数方程式の解でした。この頃対象になっていた代数方程式は、3次方程式、4次方程式でした。1次方程式、2次方程式は、解けるようになっていましたので、3次、4次の方程式が、研究の対象になっていたのです。イタリアの数学者が活躍していました。3次方程式からはじめましょう。3次方程式の一般の解の公式は、カルダノの方法としてすでに書きましたので、下記のリンクを参照してください。16世紀はじめにボローニャ大学にシピオネ・デル・フェルロという教授がいて、どうも3次方程式 \(x^3+px=q\) の解法を見つけたと言われています。詳しいことはわかっていませんが、フェルロは、自分の発見した公式を発表しませんでした。そして、弟子のアントニオ・デル・フロリドに公式を教えて、死去しています。フロリドは、3次方程式を解くことが出来ることを公言し、3次方程式についての「試合」をすることを宣伝しました。このころは現代と違って、研究を発表する機会がなかったため、優先権を主張するために、「試合」の形式をとったと言うわけです。これが、数学の「試合」なのです。フロリドの挑戦に応じたのが、ニコロ・フォンタナです。彼は言葉がどもったりしたので、タルタリア(イタリア語でどもるの意味)とも言われています。ベネッチア大学教授だったタルタリアは、1535年に試合をし、完勝しました。タルタリアはフロリドの問題を2時間くらいで完全に解きましたが、フロリドは、タルタリアの問題を全く解くことは出来ませんでした。試合後、タルタリアのもとには、彼の解法を教えて欲しいと言う人が殺到したそうです。その中でも特に熱心だったのが、カルダノだったのです。3次方程式の解は、カルダノの方法と言われていますが、なぜなのでしょうか。
カルダノの公式
カルダノは、タルタリアに頼み込み続け、タルタリアも根負けし「絶対に他にもらさない。」と誓約させ、タルタリアの解法をカルダノに教えたのです。ただし、タルタリアは解法のみを教え、証明は教えませんでした。教えた方法は、現代式に書くと、
「3次方程式の形が、\(x^3+px=q\) の時には、\(u-v=q, uv=p^3/27\) とおいて、\(u,v\)を求めれば、\(x=\sqrt[3]{u}-\sqrt[3]{v}\)となる。」というものでした。この内容から、カルダノは実際の解を、\(p,q\) で表し、いわゆるカルダノの公式を見出したのです。
カルダノの公式は、次のリンクを参照してください。3次方程式の解の公式
ところが、あろうことかカルダノはタルタリアとの約束を破り、1545年に出版した自著に書いて、公表してしまったのです。タルタリアは激しく怒り誓約違反を責め激怒したのです。悔恨と憤怒の情にかられ、カルダノに挑戦をしましたが、カルダノは逃げ回り、若い弟子のフェラリを代理にたて、「試合」をすることになりました。怒り心頭の初老のタルタリアは、不覚にもフェラリに破れてしまいました。数学の試合とはこのようなものでした。3次方程式の解の公式は、一般にカルダノの方法と言われていますが、実際にはフォンタナの方法ないしタルタリアの方法と言わなければならないのかも知れません。
フェラリは優秀な数学者で、3次方程式の解法を使って、4次方程式の解の公式を導いています。4次方程式の解の公式は、フェラリの公式と言われています。