ヒルベルト-現代数学の基礎を築いた数学者-
ヒルベルトの生い立ち
ヒルベルトは、19世紀後半から20世紀前半まで活躍したドイツの天才数学者です。
ケーニヒスベルグで、法律家の子として生まれています。ケーニヒスベルグは第2次世界大戦後、今はロシアのカリーニングラードとなっています。ケーニヒスベルグで有名なのは、ケーニヒスベルグにあった川にかかった7つの橋をただ1回だけ渡って、もとに戻るかを否定的に解決し、トポロジーの先駆になった町でも有名です。
ヒルベルトは、ハイデルベルグ大でフックスの講義を聞き、ケーニヒスベルグでは、整数論や楕円関数論の勉強をしています。
また、ロッテンブルグ大でπの超越性を証明したリンデマンにも学んでいます。特殊相対性理論の空間論を後に構成したミンコフスキーも学生として親交を結んでいます。
ドイツでは、昔から優れた大学制度を有していて、学生は他大学に行って著名な先生の講義を自由に聞くことができました。今では多くの国がこのような大学制度をとってていますが、日本では大学の権威や教授会などのために複雑な規則をつくり、日本のシステムは劣ったものになっています。大学改革が叫ばれていますが、大学のより広い改革が必要だろうと痛切に感じています。
ヒルベルトの数学的業績
ロッテンブルグでは、ゲッティンゲンからやってきたフルビッツ、ミンコフスキーと毎日3人で散歩しながら数学について議論したといわれています。
当時カントールの集合論や数論に関するクロネッカー、クラインの考え方も話し合ったとされています。
ヒルベルトは、パリ、エルランゲン、ゲッティンゲンなどに行き、いろいろな大家と数学の様々な問題と取り組んでいきました。そして、今日の環論のヒルベルトの基底定理、すなわち「体上の多項式環のイデアルは、有限の基底をもつ」と言う定理の証明を行いました。また、1890年には、正方形内の全ての点を通る連続曲線を作って、ペアノ曲線の簡単な例も作り上げました。
また、1899年には、数学全体をゆるがせることになる、「幾何学の基礎」についてを論じ、現代数学の公理的な方法を構築しています。
1900年には、パリの第二回世界数学者会議で、「数学の23の問題」を提示し、20世紀の数学がめざすべき方向性を示しています。
1900年代初めのゲッティンゲン大学
このころのドイツのゲッティンゲン大学は、クライン、ヒルベルト、ミンコフスキー、シュミット、ブルーメンタール、ツエルメロ、ワイルなど、ヨーロッパの数学研究の中心地でありました。また、ヒルベルトは、クーラントとともに、有名な「数理物理学の基礎」を書いています。
20世紀の数学は、ヒルベルトなしには語ることができません。1933年にヒトラーが政権を取ったとき、多くのユダヤ人研究者は追放されたり、ドイツを去ったりしました。ヒルベルトは、1943年第二次世界大戦終戦前に孤独のうちになくなってしまいますが、現代数学には極めて多大な影響を及ぼしてきたといえます。