天才ガロワの業績-ガロワの群論-

ガロワの生きた時代

ガロワは、フランス革命時のフランスの数学者です。パリ郊外に生まれました。家庭は裕福で、子供時代は苦労もなく過ごしてきました。初等教育は母親に手ほどきを受け、12歳から、ルイ・ルグランという中学校に入ります。全寮制で、ガロワはあまりいい中学生活をおくっていなかったようです。

最初は、成績も良かったようですが、数学以外にはほとんど興味が持てなくなり、成績も下がり始めました。
学校の授業は面白くなく、ガロワ自身は、その当時の著名な数学者であったるルジャンドルやラグランジュの本を読み物を読むように、読み進んでいったといわれています。

ガロワの受験時代

ガロワは、既に16歳のときに、5次方程式の解の研究を始めていました。この年に、ガロワは、有名な,エコール・ポリテクニックを受験していますが、不合格になっています。

ガロワは、母校に帰り数学をしっかり教えてくれるコースに入りました。このときであったのが、リシャールと言う先生で、直ちにガロワの天才的才能を見抜き、ガロワは、数学の中でも最高のものを選んで研究していると報告しています。このころすでに、「循環連分数についての定理の証明」を発表しています。

ガロワは、17歳のときに、ガロワが研究してきた論文をまとめ、当時のフランスのもっとも著名な数学者であったCauchyに送りました。ところが、Cauchyは論文を学士院に報告すると約束しましたが、ガロワの論文を机の中に入れ忘れてしまい、さらになくしてしまったのです。このため、ガロワは学会や社会に対して不信感を持つことになってしまいました。

18歳のとき、ふたたび、エコール・ポリテクニックを受験しますが、このときは、口頭試問で試験官があまりにもガロワにとっては分かりきったことを聞いたので、ガロワは、試験官にチョークを投げつけてしまったといわれています。こうして、才能ある生徒が、知力の劣った試験官によって落とされてしまったのです。その後、ガロワはエコール・ノルマルに入学しています。

ガロワの本格的な研究のはじまり

19歳のとき、ガロワは3つの論文を書いています。この中に、ガロアを数学史上天才的にした論文である、「置換群と代数方程式について」の研究を行っています。おなじころ、アーベルが5次方程式の解の代数的な手順がないことを証明しています。

ガロワは、方程式論については別途まとめ学士院に提出しましたが、論文を持ち帰ったフーリエが亡くなってしまいます。こうしてガロワは、学会に提出した論文を2度もなくされてしまいました。

ガロワは、もはや我慢できなくなり、革命にのめりこんでいくようになっていきます。ガロワは学校を退学させられ、高等数学を教える塾を開きました。
このころ、ポアソンがガロワに興味をもち、再度論文を書くように求めましたが、ポアソンは、どうもよく分からないところがたくさんあると言われ、ガロワは完全に数学への情熱を失い、革命へとつき進んでいきます。

革命の闘士としてのガロワ

ガロワは、革命にのめり込み、当局に何度か逮捕もされています。警察は絶えずガロワの行動を終始追っていました。最後は、禁固にもなっています。パリにコレラが流行したとき、仮出所を許されていますが、病院へ預けられています。

ガロワの恋愛事件

これは、当局の仕業と言う噂もありますが、ガロワはある女性をめぐって恋愛事件を起こしています。共和党員はその当時、つまらない理由で決闘をしていたと言われています。

決闘前夜、ガロワは自らのガロワ理論を、30ページくらいの論文にまとめます。論文は殴り書きのようなもので、あちこちに、時間がない、時間がない、と言う言葉がたくさん書かれています。ガロワは死期を予測していたのかも知れません。1832年5月20日の朝、ガロワは、わずか20年の1生を終えることになってしまいました。

ガロワの論文は、友人のシュバリエに託され、1846年にリュービルによって、数学史上不滅の業績だと言う事が認められました。

 

 

 

 

Follow me!