フェルマーの定理の証明に貢献した人々-Willesの証明に貢献した日本人-

フェルマーの定理の証明に貢献した人々(フェルマーの最終定理)

フェルマーの定理は、既に投稿したように、1995年にケンブリッジ出身のアンドリュー・ワイルズによって証明がなされました。フェルマーがこの予想をある本に書いてから、360年もかかってしまいました。

この証明には、ワイルズの弟子のテイラーや、カッツ、フライ、リベットらの貢献も大きいのは確かですが、この最終的な証明(1回目は欠陥がありました。)には、日本人数学者の貢献も相当大きなものがあります。これらの歴史は、サイモン・シンのフェルマーの最終定理や藤原正彦さんの随筆にもかなり詳しく書かれています。

カッツはワイルズのプリンストン大時代の同僚で、ワイルズが何とか、証明に成功しそうだと直感した時に、初めて話をし講義を聴いて貰って論理的な矛盾がないかきいてもらった人物です。

1955年の東京、日光の国際数学者会議

戦後まもない1955年に、日本で数論の国際会議が行われています。ヒルベルトの23の問題の1つを類体論という優れた理論で発展させた東大の高木貞二に敬意を表したものだったと言われています。

この会議では、フィールズ賞の小平邦彦の若い弟子たちや、数学に情熱を注いでいた東大の若手が大活躍したと言われています。そのなかで、突出した存在は、東大の谷山豊、志村五郎だろうと思います。楕円曲線での谷山・志村予想で有名です。

楕円曲線は既に説明済みですが、谷山・志村予想は楕円曲線に関する美しい予想です。今では、ワイルズの証明によって定理になりました。時に谷山・志村・ベイユー予想と呼ばれたときもありましたが、ベイユーは関係していないことがわかっています。その他には、岩澤健吉、彌永昌吉、肥田春三らもワイルズの証明に貢献したといわれています。また、1988年には、東京都立大(東大数学科出身)の教授でマックス・プランク研究所で、研究していた時に、宮岡洋一(後に東大教授)がフェルマー予想を証明したという噂が流れたことがありましたが、後に不備があったことがわかりました。難問の難問たる所以なのかも知れません。

谷山・志村予想

リベットと言う数学者が、谷山・志村予想が正しければ、フェルマーの定理は正しいと言うフライの予想を証明してしまいました。ワイルズはこの事実を聞いた瞬間に、フェルマーの予想に取り組もうと決心したといわれています。
そして、ワイルズは、谷山・志村予想の証明に7年の歳月をかけ、孤独な努力をします。

でも、谷山・志村予想のかげには、悲しい話があるのです。谷山豊は、数学的な業績を上げ若くして東大助教授となります。彼こそ天才でした。

しかしこの後に誰にも予想もできなかったことが起こってしまいます。谷山豊は、「自分はもう疲れてしまった。もう研究をやってゆく自信がなくなってしまった。」と言う言葉を残し自殺してしまったのです。周りの誰も谷山が自殺したのが信じられなかったし、心当たりが見つからなかったのです。天才であるがゆえの悩みであり、天才にしか理解できないのかもしれません。

そして、さらに悲劇が続いたのです。谷山はこのとき婚約者がいました。その女性が、「彼がなくなったのなら、私も彼の元にいかなくてはなりません。」と後を追ったのです。

ですから、僕はフェルマーの定理を見るたびに、谷山とその婚約者のことが頭に思い浮かびとても悲しい思いにかられることがあります。数学の天才は若くしてなくなっている例があります。ガロワ、アーベル、は20代でしたし、リーマンやラマヌジャンは40そこそこでした。どうして、天才数学者は若くして死んでしまうことが多いのか。私は、フェルマーの定理を見ると、このことを思い出して天才たちの孤独な精神世界と並外れた精神集中を思わざるを得ないのです。

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